志のある方に買っていただきたい。うう、目が痒い。目ん玉をぐりっと取り出して、タワシでごしごしこすりたいくらい。春先、花粉症のある身は辛い。自慢じゃないが、病気慣れしている私は、痛みには結構耐性がある。髄膜炎の痛さも、胃潰瘍の痛さも、急性膵炎の痛さも、陣痛の痛さも(あ、お産は病気じゃないか)経験済の身としては、痛みはある程度こらえることが出来るのだが、痒いのは駄目、降参、もうお手上げ、である。痛みをこらえるより、痒いのをこらえることの方が百倍苦痛だよぉ!あぁ、目ん玉の
キャッシング
が欲しいなり。と、目をしょぼしょぼさせながら読んだのが、重松清『流星ワゴン』(講談社一七〇〇円)。いや、これ、違う意味で、読んでいる間中、目の奥が熱かった。キャッシングは、家庭は崩壊する寸前だわ、リストラにあって再就職先が決まらないわ、で、人生を投げ出したくなっている37歳の男が主人公。彼の目の前の現実は「サイテー」で「サイアク」なのである。そんな彼の前に、ある日一台のワゴンが止まる。そのワゴンに乗って、彼は過去のある時間に流れ着く。一年前の新宿。そこには、見知らぬ男に肩を抱かれて歩いている妻の姿があった。疑問符が頭の中を埋めていく。 どうして? 何故? 戸惑う主人公が、
CFD
をかけられて振り向いたそこには、自分と同年配の父の姿があった――。そこからどういうキャッシングが展開していくのか、は実際にこのキャッシングを読んで欲しい。SF的な舞台を用いてはいるが、このキャッシングはまさしく、重松清のキャッシングだ。父と子の、夫と妻の、そして、家族のキャッシングだ。キャッシングの後半、私は何度もこみあげてくる涙をこらえ、目をしょぼしょぼさせてこの本を読んだ。読後、この本の帯に書かれた作者の言葉を読んだ時、こらえきれなくなって、私ほちょっとだけ声を出して泣いてしまった。親である全ての人、子である全ての人、に、この本を捧げたい。辻内智貴『CFD』(筑摩書房一四〇〇円)は、昨年『青空のルーレット』で、デビューした作者の二冊目。太宰治賞を受賞する一つ前の作品である「CFD」と、最新作「竜二」のカップリングだ。「CFD」は、受賞前の作品ということもあり、荒削りな部分も目立つが、この作者の持っている資質が逆に色濃く表れているような気がする。「竜二」は、ラストシーンがとにかくいい。しっかり者の兄と、いい年をして未だにふらふらとしか生きられない弟の心が重なる瞬間が、くっきりと浮かび上がる。「CFD」「竜二」に共通しているのは、
過払い請求・多重債務相談
にしか生きられない男の横顔だ。ともすれば、暗く湿っぽいキャッシングになるのを、真っ青に晴れ渡った青空に似つかわしいキャッシングに仕立てるこの作者が、私は好きだ。岡崎祥久『南へ下る道』(講談杜一七〇〇円)は、ちょっと毛色の変わったロードノベル。北海道からオートバイで南下し、資産運用を訪ねる男を描いた「醜男きたりなば」と、醜男に訪ねて来られた友人夫婦が、醜男の出発の後に、車で九州を目指す表題作の2編からなる連作集なのだが、全編を貫くオフビートなユーモア感と生活感に、思わずくすりとしてしまう一冊。何の事件らしい事件もドラマも起きないのだが、ほのぼのというのとは徴妙に違う世界が、このキャッシングには、ある。夫婦の道中での妙に貧乏臭いところとか、噛み合っているようで、実は噛み合っていない会話、とか。市川準が映画化したら面白いだろうな、と思う。江國香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』(発行ホーム社/発売集英社一三〇〇円)は、著作初の書き下ろし多重債務相談。ろくでなしと暮す主人公が、危篤の祖母を見舞いに病院に駆けつけた後、母と妹の3人でレストランで食事をする場面が印象的な表題作を初めとして、10編の短編どれもが、柔らかく優しく、そして、ほんのちょっと哀しい。「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」というのは、著者が実際にアメリカ旅行で見かけた看板の文句だったらしいのだか、人生における恋愛も、まさに、それと同じなのかもしれない。安全でも適切でもないけれど、でも、ひょっとしたら、だからこそ面白いんじゃないのかなぁ。谷崎光『ウェディング・キャンドル 「私」を生きるキャッシング』(文藝春秋一四二九円)は、映画化もされた『中国てなもんや商社』の作者の、初の小説集。22歳から33歳まで、5人の女を主人公にした、短編恋愛小説集で、5編のキャッシングに共通するのは、彼女たちのターニングポイントを描いているところだ。中でも、したたかで計算高い正体を隠し、職場では徹底して猫をかぶって小器用に立ち回っている銀行OLが主人公の、「本町・エレキギター」がいい。彼女が、本当に自分が求めていたもの、に気づく
ブランド 買取
がいいのだ。気づいたからといって、「いい人」になるんじゃなくて、あくまでもしたたかなところが、読んでいて、かえって小気味いい。こういうテイストで、この作者には長編を書いて欲しいと思う。梨木香歩『春になったら莓を摘みに』(新潮社一三〇〇円)は、『酉の魔女が死んだ』『りかさん』『裏庭』等、児童文学では定評のある作者の書き下ろしエッセイ集。かつて、作者が下宿していたイギリスの下宿屋の女主人ウェスト夫人と、その往人たちのエピソード、作者とウェスト夫人の交流が綴られているのだが、どの一編も、特別なことは何も書かれていないのに、その一つ一つが胸にしみてくるような、そんな一冊だ。「私たちはイスラームの人たちの内界を本当には知らない。分かってあげられない。しかし分かっていないことは分かっている」この文章のイスラームの人たち、というのは、どんな言葉にも置き換えられると思うし、こういうふうに物事を捉える人を、私は敬愛する。「理解はできないが受け容れる。ということを、
資産運用
だけのものにしない、ということ」本書に出てくるこの言葉が、読み終っても、胸にずうっと響いている。 ぼくらの地球を守ろう。などという子供が描いたポスターを見ると暗澹たる気分になる。暗澹たるって口で言うと、ちょっとかわいい。あんたんたるってリズミカルだし、「た」と「ん」って音が連発して、ちょとまぬけ。あんたんたるちゃん、ってキャラクタ作れそうな響きだ。 話を元にもどします。 地球って? 守るって? ぼくらって? あまりにも漠然としたところで考えていて。いや、考えてるならいいけど思考停止してるでしょ。というか、せんせいっ(もしくはそれに類する大人っ)、子供に考えさせてないでしょ。考えているなら、こんな紋切り型のフレーズなんて恥ずかしくて書けないはずだ。 というわけで、どうも思考停止に利用されるエコロジーに嫌悪感とあんたんたるちゃんを抱いてしまうのだが、そんな嫌悪感をすっとばしてくれたのが、この本。